●光 父の遺していったもの
  久松ゆり




 父はこれまでに二冊の句集を上梓した。一冊目が平成四年の「波」、そして二冊目は、それから六年後に出した「風」という句集だ。俳句は父の三十数年来の趣味で、句集の編纂は退職後の父にとってなによりの楽しみだった。
 ある日父が、「生涯に三冊の本を出せたら本望だ」といった。句集は三部作で完結、それで大満足なのだという。
 ふと、父がこよなく愛した故郷の海を思った。海と山に挟まれた小さな漁師町の、小さな入り江の風景だ。海はただ悠々とそこにあるが、潮の満ち干きや風向き、波の高さで刻々とその表情を変える。
 
 私の記憶に鮮明に残っているのは、山の高台から父と見た、ある春の日の絵のように凪いだ海だ。入り江一面に網をかけたようなさざ波がたち、春の柔らかな陽光がその小さな波頭をキラキラと輝かせていた。
 八十路を迎えた父の人生が、幾度となく訪れたその海の情景に重なった。父の人生を荒れ狂わせた波風はすでに去り、今では春の凪ぎの日のように穏やかな老境を迎えている。その閑居な老いの暮らしのなかで作った句を輝かせてくれるもの、それはあの日、入り江一面に降り注いでいた「光」以外にはないと思えた。

「三冊目のタイトルはどうするつもり?」
「うん。『光』がええかなあと思うちゅう」
 驚いたことに、親子で同じことを考えていた。私は「それはいいね」とだけ答えて、三部作の完成を楽しみに待つことにした。
 しかし父は、その第三句集を完成させることなく、志半ばでこの世を去ってしまう。上梓するにはまだ句数が足りないといい、病の床でも必死に句を作り続けたが、病魔は刻々と頑丈だった父の体躯を蝕んで、ついには鉛筆さえ持てなくなるほど屈強に父を痛めつけた。
 夏の暑い盛りに、突然主を失った数冊の俳句ノートは、誰の目にとまるでもなくピアノの上に捨て置かれ、埃をかぶったままになった。

  人生の荒波凪ぎて老いに春


  海底の藻に立春の陽の透くる

 四十九日の法要を終えると、夏の疲れが一気に噴き出した。肉体的な疲れはもちろんのこと、父親を失った精神的な痛手を埋められず、私は軽い鬱状態になっていた。
 実家の郵便ポストに一枚のコミュニティー新聞が投函されたのは、ちょうどそんな頃だった。
 それは、月に一度配られる地区の人達のための情報紙で、末尾には投稿された短歌や俳句などが掲載される。父も生前よく、このコミュニティー新聞に投句していたことを思い出し、懐かしさに目が潤んだ。今はどこの誰が投稿しているのだろうか。紙面の隅にふと目をやった私は、思わず小さな悲鳴を上げた。そこには、「静杜」(父の俳号)の名で、次の句が掲載されていたのだ。

  仁王門くぐれば牡丹浄土かな

 まるで、西方浄土に旅だった父からの便りのようではないか。
 それはかつて「風」に収められた懐かしい一句。遺書もなく、一言の遺言さえ残さなかったあの寡黙な父らしい、わずか十七文字の短い手紙だった。
 父は二カ月間寝たきりだったのだから、もしも自分でこの句を投句したのだとすると、一人で散歩ができた最後の頃、五月の末頃ということになろう。本来なら、投稿から掲載までにそれほど時間はかからないので、どうしてこの句が、父の死後一カ月半あまりもたって掲載されることになったのか、定かではない。もしかしたら、編集に当たられる方が父の死を知り、遺族の心中を察してこれまでの作品のなかから適当なものを、急ぎ掲載してくださったのかもしれない。
 いずれにせよ、寂しさの直中でこの句に出会った私は、父の旅路の安寧を知らされたようでとても心が安らいだ。父が会社勤めをしていた頃、出張に出ると必ず出先から「着いた」、と短い電話が入ったことを思い出して可笑しくなった。死んでも、その律儀さは変わらない。